11月10日 シンガポール2日目①
今日は日曜日です。
だんだん曜日の感覚が薄れていくこの頃です。
昨夜は眠ったのが遅かったせいで朝はゆっくり起きました。
宿の近くにはいくつも食堂があるのですが、朝食に外に出たところ、日曜日のためか軒並み閉まっていました。
やむなく今日お邪魔することになっているミセスRの自宅に近いMRT(地下鉄)のKovan駅まで行くことにしました。
駅に行けば近くにきっとフードコートぐらいあるだろうと思ったからです。
宿の最寄駅のリトル・インディアのプラットホームはインド色満開です。
MRTは広軌車両のため車内も広くてゆったりしています。
注意書きや車内放送は英語、中国語、マレー語(多分)、ヒンズー語(たぶん?)の4カ国語でおこなわれます。シンガポールは多民族国家といわれることを実感します。
リトル・インディアから北東へ6駅目がKovan駅です。
この辺りは観光地ではなく普通の住宅街のようです。
案の定駅から地上に出るとモールがあって中には肉、野菜、魚の市場がありフードコートも併設されていました。
シンガポールも外食の国ですので日曜日は家族でフードコートで朝食をとる人が多いみたいですね。
たくさんある店の中から雲呑麺 3SGD(約250円)を買ってテーブルだいただきます。
よく見ると店によって常に行列が出来ている店とそうでないのがハッキリしているようでした。
食べ終わり少し市場の様子を見てまわったあと駅前から112番のバスに乗ります。
降りるバス停が今ひとつわかりにくかったので、バスを待っていたおじさんに尋ねたところ、おじさんが降りるのも同じバス停だったことが分かり助かりました。
バス停で降りるとあたりは日本ならさしずめ公団住宅みたいな建物がたくさん並んでいます。
土地が狭く値段が高いシンガポールでは7割を超える人が共同住宅に住んでいるそうです。
ミセスRもその一人ということですね。
目的の棟に着いてからミセスRに電話を入れ、エレベーターホールまで迎えに来てもらいました。
ミセスRの家は3階にありました。再会できたこと、家に招待してくれたことにお礼を述べます。ここまでは予習してきたので英語もスラスラでてきました。
挨拶が終わると後は応用問題の連続ですので急に言語障害に陥いったのは皆様も予想通りのところです。
たどたどしい英会話(ワタクシの方だけですョ)が続く中でシンガポールの滞在予定を尋ねられました。
14日にはカンボジアに移動すると答えると、12日の夜は知り合いも呼んでの夕食のお誘いがあり、さらに12日・13日はこの自宅に泊まっていくように言ってくれました。
ちょうど12日は宿替えをしなければならなかったのでいずれも有難くお受けしました。
するとその場で知り合いに電話し、12日の日程を確認しているようでした。もしかしたらイポー駅に一緒にいた人の中の誰かかもしれません。
予定が決まったあとバス停まで送ってもらいました。さらに途中のフードコートで鶏飯をご馳走してもらいました。なんだか申し訳ないくらいですね。
ミセスRが店の人に英語でない言葉で注文していたので尋ねると福建語とのことでした。そう言えば彼女は元々はマラッカの生まれで客家の出身だと言っていたのでした…。
帰りのバスの行き方に着いてしつこいくらい教えてくれたあと、ワタクシが店から少し離れたがバス停に着くまで遠くから見守ってくれていました。
もしかしたら言葉の不自由な息子の様に思ってくれていたのかも知れませんね。
だんだん曜日の感覚が薄れていくこの頃です。
昨夜は眠ったのが遅かったせいで朝はゆっくり起きました。
宿の近くにはいくつも食堂があるのですが、朝食に外に出たところ、日曜日のためか軒並み閉まっていました。
やむなく今日お邪魔することになっているミセスRの自宅に近いMRT(地下鉄)のKovan駅まで行くことにしました。
駅に行けば近くにきっとフードコートぐらいあるだろうと思ったからです。
宿の最寄駅のリトル・インディアのプラットホームはインド色満開です。
MRTは広軌車両のため車内も広くてゆったりしています。
注意書きや車内放送は英語、中国語、マレー語(多分)、ヒンズー語(たぶん?)の4カ国語でおこなわれます。シンガポールは多民族国家といわれることを実感します。
リトル・インディアから北東へ6駅目がKovan駅です。
この辺りは観光地ではなく普通の住宅街のようです。
案の定駅から地上に出るとモールがあって中には肉、野菜、魚の市場がありフードコートも併設されていました。
シンガポールも外食の国ですので日曜日は家族でフードコートで朝食をとる人が多いみたいですね。
たくさんある店の中から雲呑麺 3SGD(約250円)を買ってテーブルだいただきます。
よく見ると店によって常に行列が出来ている店とそうでないのがハッキリしているようでした。
食べ終わり少し市場の様子を見てまわったあと駅前から112番のバスに乗ります。
降りるバス停が今ひとつわかりにくかったので、バスを待っていたおじさんに尋ねたところ、おじさんが降りるのも同じバス停だったことが分かり助かりました。
バス停で降りるとあたりは日本ならさしずめ公団住宅みたいな建物がたくさん並んでいます。
土地が狭く値段が高いシンガポールでは7割を超える人が共同住宅に住んでいるそうです。
ミセスRもその一人ということですね。
目的の棟に着いてからミセスRに電話を入れ、エレベーターホールまで迎えに来てもらいました。
ミセスRの家は3階にありました。再会できたこと、家に招待してくれたことにお礼を述べます。ここまでは予習してきたので英語もスラスラでてきました。
挨拶が終わると後は応用問題の連続ですので急に言語障害に陥いったのは皆様も予想通りのところです。
ミセスRは既にご主人を亡くされ、子供達はアメリカとイギリスで暮らしているとのことでした。
数年前までライターとして活躍し、各種の新聞、雑誌にも寄稿するなどシンガポールではそれなりに名の通った方だったようです。当時の記事や著作も見せて貰いました。
イポー駅で会った時、お年だが普通の人とはどこか違うな…と思っていたのですが、こういうことだったんですね。
子供の頃、シンガポールは日本軍に占領され、さらに昭南島と名前を変えられ、学校の授業には日本軍が介入してきた、との話しがミセスRの口から出たときはヒヤリとしましたが、ことさら日本や日本軍を避難しているわけではありませんでした。
数年前までライターとして活躍し、各種の新聞、雑誌にも寄稿するなどシンガポールではそれなりに名の通った方だったようです。当時の記事や著作も見せて貰いました。
イポー駅で会った時、お年だが普通の人とはどこか違うな…と思っていたのですが、こういうことだったんですね。
子供の頃、シンガポールは日本軍に占領され、さらに昭南島と名前を変えられ、学校の授業には日本軍が介入してきた、との話しがミセスRの口から出たときはヒヤリとしましたが、ことさら日本や日本軍を避難しているわけではありませんでした。
たどたどしい英会話(ワタクシの方だけですョ)が続く中でシンガポールの滞在予定を尋ねられました。
14日にはカンボジアに移動すると答えると、12日の夜は知り合いも呼んでの夕食のお誘いがあり、さらに12日・13日はこの自宅に泊まっていくように言ってくれました。
ちょうど12日は宿替えをしなければならなかったのでいずれも有難くお受けしました。
するとその場で知り合いに電話し、12日の日程を確認しているようでした。もしかしたらイポー駅に一緒にいた人の中の誰かかもしれません。
予定が決まったあとバス停まで送ってもらいました。さらに途中のフードコートで鶏飯をご馳走してもらいました。なんだか申し訳ないくらいですね。
ミセスRが店の人に英語でない言葉で注文していたので尋ねると福建語とのことでした。そう言えば彼女は元々はマラッカの生まれで客家の出身だと言っていたのでした…。
帰りのバスの行き方に着いてしつこいくらい教えてくれたあと、ワタクシが店から少し離れたがバス停に着くまで遠くから見守ってくれていました。
もしかしたら言葉の不自由な息子の様に思ってくれていたのかも知れませんね。