パパグロッソの街歩き・一人旅

リタイア組です。身体は太いですが、ブログは細々と続けていきます。

11月16日 プノンペン3日目 ①

今日はパンニャ君のトゥクトゥクで午前8時に宿を出発してキリングフィールドへ向かいます。


プノンペンは中心街の道路はまあ綺麗なほうですが、少し中心街から外れると道に大きな穴が開いていたり、雨の後は池のようになたり、晴れて乾くと今度は埃が舞う…今の日本では考えられない道路事情です。


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バイクの3人、4人乗りは当たり前。このバイクには大人2人に子供3人が乗ってました。

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バンは事実上バスと化しているようで、すれ違いに数えた限り20人以上乗っている日本製のバンを沢山見かけました。

何と言っても一列目に運転手を含めて4人が乗っている始末で、後ろ扉は乗客の足が出るので閉められず、紐で開かないように留めて走っています。




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キリングフィールドに到着しました。英語ではチュンエク虐殺センターとなっていました。

入場料3$ とオーディオガイド3$ を払って中に入場します。

キリングフィールドというのはここ一箇所と思い込んでいましたが、実際にはカンボジアの各地に設置されていたのでした。

ここチュンエクの「処刑場」は昨日訪れた市内のトゥールスレーン刑務所から移送された人々が処刑された場所でした。

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今は建物は何も残っておらず、慰霊塔と屋根が設けられた死体が埋められた穴の跡と説明板があるだけです。

事情を知らなければ緑の多い公園のようなところです。

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ポルポト派が逃走した後、貧しく飢えていたカンボジアの人々は建物を壊して自分たちで利用していたのでした。

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周辺の農民たちはここがポルポト派の施設であることは知っていました。しかし
ここで実際には何がおこなわれていたのかは知りませんでした。

毎日大音響で革命歌がスピーカーから流され、殺害された死体を入れた穴には大量のDDTが撒かれました。

大音響は集会をやっていると偽装するためだけではなく、断末魔の悲鳴を聞こえなくし、DDTは腐臭を隠すためだったといわれています。

チュンエクだけでおびただしい数の知識人、教育者、教育を受けた者などが殺害され、はては眼鏡をかけているだけで反革命分子として拘束され処刑された者もいたそうです。

ポルポト派は自分たちに盲目的に従う農民以外の人間を抹殺するため、反革命分子として捕らえ拷問し、無理やり自白させこうしたキリングフィールドで次々と処刑して行ったのでした。

処刑は銃弾の値段が高いので、ナイフ 山刀 斧など低コストの道具を使って行われました。

ポルポト派の兵士は乳幼児を母親の目の前で大きな木にたたきつけて殺しました。

ポルポト派が逃走した後、この地獄の存在を発見した農民は、太い木に血と毛髪と脳漿がこびりついているのを見て驚愕したと言います。

次に母親は裸にされて殺害され、すぐ隣の穴に放り込まれました。


一家皆殺しにされたケースが多いと言われます。ポルポト派は復讐されるのを恐れて一族郎党を皆殺しにしたのでした。

カンボジアの国民の4人に1人が同じカンボジア人に殺されたといわれるほどの大量虐殺が行われたのです。


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慰霊塔には全部の遺骨が祀られているわけではないそうです。



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埋められままにしてある遺骨も多数あり、雨が降ると地面が洗われ、今でも遺骨や犠牲者の衣類の切れ端が露出することもあるそうです。

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遠い昔の話ではなく、1975年から1979年の頃に起きた悲劇でした。

ちょうど会社に入る前後の頃で会社にも社会にも慣れるのに無我夢中の頃でした。

穏やかなカンボジアの人と接するたびになんでこんな事がこの国で?という思いを強くしますが、結局、政治の狂気が産んだ事態なのでしょうか。

キリングフィールドを歩いている間、今の日本と無縁の話だと断言する確信は持てませんでした。

犠牲者のご冥福をひたすら祈るばかりです。